大学仏青の今昔-花まつりにちなみ

  渡辺 章悟  

 
 カリユガ(終末期)に 甘茶を灌ぎ 手を合わす   如雷


 この句にあるように、花祭りは甘茶の思い出とともにある。椿や連翹(れんぎょう)で飾られた花御堂に鎮座する誕生仏が、右手を挙げたまま、何度となく甘茶を灌(そそ)がれ、浴している様子は、親しみやすい子供のお祭りというイメージを醸し出す。

 そもそも「花まつり」は、陰暦四月八日(現在では陽暦が多い)に釈尊の誕生を祝う法会で、降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)ともいう。わが国では花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、水盤に釈尊の像(誕生仏)を安置し、参詣者は小柄杓で五種の香水を釈尊像の頭上に灌ぎ、あるいは甘茶を持ち帰って飲むようになった。このことから、灌仏会(かんぶつえ)、浴仏会ともいわれる。

 現在、わが国ではこの降誕会をだいたい四月八日に行っているが、スリランカ、ミャンマー、タイなどの南方アジアの仏教国ではヴェーサック月というインド暦の第二の月(太陽暦では五月中旬頃)に行うので、ウェーサック祭といい、五月中旬の満月の日に催行される。

なお、花まつりという名称は、明治中期に青年層を中心とした仏教青年会活動の一つとして、大きく取り上げられ盛んになったもので、現在も宗派を超えた仏教行事の一つである。
 その発端は西本願寺の普通教校出身者たちとかかわっている。普通教校は、西本願寺が経営していた学校で、明治十八年(1885)に開学してからわずか3年で廃校になるが、その間に多くの人材を輩出したことで知られている。特に明治二十年(1887)に、教員・学生有志により「禁酒進徳」をスローガンに掲げて組織された「反省会」は社会改良運動を進めてゆくが、この運動は若い仏教徒たちに大きな影響を与え、後の仏教青年会運動につながってゆく。

 教師教校を退校した古河老川(勇)らは、帝大・第一高等中学及び私立学校の有志を集め、明治二十二年(1889)四月に東京芝区愛宕町青松寺で合議し、島地黙雷を講師に迎えて「仏教青年会」を結成。この協会は一年足らずで活動を停止するが、古河らは明治二十四年(1891)に東京駒込の真浄寺住職・寺田福壽の呼びかけで、仏教青年会の活動を始め、翌年一月六日に在京の普通教校の出身者たちを集めて「東都仏教青年協会」を結成した。

 この時、かれらは新たに「大日本仏教青年会」の結成を決めて、その活動の一つに降誕会の大々的な開催を合議している。この降誕会はクリスマスをもじって「釈迦マス」と呼ばれ、若者たちが刷新の意味を込めて企画したものであったらしい。当会の中心人物であった古河はこれに反対したが、明治二十五年四月八日「釈迦牟尼世尊降誕会」は慶応義塾で開催され、大盛況であったという。

 なお、大日本仏教青年会の正式な発会式は、明治二十七年(1894)四月八日に神田・錦輝館で挙行されたが、その時に定められた会則(第三条、第一項)には、「毎年釈迦降誕会を執行すること」と明記されている。このように、仏教青年会の活動は講演や勉強会を行う二週間の夏期合宿に加え、この釈尊降誕会が重視されていたのが判る。現代的な花まつりの起源はここにある。

 ただ、「花祭り」という名称はさらに後になる。それは明治三十四年(1901)四月八日、ベルリンにいた日本人留学生が集まって釈尊の降誕会を開き、この時に彼らが「花祭り」と呼んだのが最初だといわれる。この後次第に盛んになり、大正五年(1916)に東京浅草の僧侶安藤嶺丸(大谷派)、渡辺海旭(浄土宗)、大森禅戒(曹洞宗)らが「東京連合花祭り会」を組織してから一般的になったようである。

 安藤らが企画した花祭りには、早稲田仏青初代会長であった武田豊四郎や、千代田、淑徳、東洋大などの仏教系学生が参加し、日比谷音楽堂前の広場に集い、各宗の高僧が交代で導師をつとめて祝典を挙行し、東京市内の電車運転手や車掌は花祭りの記章をつけるほどの盛り上がりだったらしい。

 このように、現在の花祭りは明治の仏教青年たちの仏教の再評価を目指して行ったイベントであったことは間違いない。

(アイキャッチ画像はヴェーサック祭の誕生仏像:Trung DuongによるPixabayからの画像)

(※HP担当のお詫び: 会長の渡辺先生から四月八日に原稿をいただいておりましたが、
アップロードが遅れ九日となってしまいました。心よりお詫び申し上げます。
 尚、 陰暦四月八日は、今年は五月二七日になります。
また、五月六日、六月四日が満月です。      )

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