菅沼晃先生の言葉

 事務局長の佐藤です。先日、必要があって『インド哲学仏教学への誘(いざな)い』(大東出版社、2005年)という本を読みました。これは東洋大学元学長で印度哲学科の教授をしておられた菅沼晃先生の古稀記念の論集ですが、その冒頭で先生が、インド哲学仏教学を学ぶときのポイントを5つ挙げています。これは今読んでもなるほど!と思うので紹介します。原文には小見出し(「語学が重要」など)はありませんが、わかりやすいように私が付けました。

(1)語学が重要

 インド哲学・仏教学は文献研究から出発するのが常道であり、専門的に研究する場合は、パーリ語・サンスクリット語 チベット語・漢文などの語学力を身につけることがまず必要である。とくにサンスクリット語はこの分野の研究の基礎となる言語であり、南方仏教やチベットモンゴル仏教を研究する場合もサンスクリット語をマスターしておかなければならない。インド哲学の研究についてはヨーロッパの学界に今も伝統が受け継がれており、その成果を知るためには、英・独・仏などの語学力が必要になってくるであろう。

 専門的ではない学び方をする場合には、それぞれの分野を専攻する信頼すべき研究者の研究成果 (書物、論文)や原典の日本語訳にもとづいて学び始めることになるであろう。

(2)原典読解は註釈を参照すべき

 サンスクリット語やチベット語で書かれた経論を正確に読解することは容易ではないが、少なくともその経論を書いた著者 (あるいは著者たち)が、そこで何を言おうとしているのかを読み取ろうとする態度が必要である。そのためには、語学力が必要なことはもちろんであるが、先入観をすて、心を集中して原典に向かわねばならない。とくにインド哲学の原典を読む場合、まず註釈によって伝統的な解釈を理解したうえで、自分の判断を下すべきである。註釈の解釈がすべて正しいとは限らないが、これによって少なくとも或る時代の解釈の仕方は理解できるわけであり、それはその原典の本来の意味を知るうえで、きわめて有用 と考えられるからである。たとえば、パーニニのサンスクリット文典は、註釈書なしには、ほとんど理解することはできない。

(3)文献研究は思想解明の手段

 文献研究はインド哲学・仏教学研究の基礎となるものであるが、それはあくまでもインド哲学や仏教の思想を明らかにするためのものであり、この点を見落としてしまうと、インド哲学・仏教学そのものの意味がなくなってしまうことに留意しなければならない。

(4)研究テーマは思想全体の中での位置づけを意識する

 専門的に研究する場合、インド哲学や仏教のすべてを一度に研究することは不可能であり、個々のテーマについて追求する方法をとるのは当然であるが、この場合も、自分の研究が仏教全体の研究のなかでどのような意味を持っているのかを常に確認しながら研究をすすめる必要がある。個別的な研究が仏教思想全体を明らかにするために、どのように役立っているかという反省なしに行われる研究は、ほとんど無意味と言ってよいであろう。

(5)宗教文献であることを意識する

 以上、主として文献研究についての心構えを述べたが、再度確認しておきたいのは、仏教文献はすべて、本質的に宗教文献であるということである。これは当然のことなのであるが、このことを忘れると仏教文献や仏教思想そのものに対する見当違いの批判が出てくるのではないかと思われる。インド哲学の原典も同様であり、もともと実践のためのマニュアルとしての性格が強く、そこに教義体系の不備や論理上の不整合があったとしても、驚くには当たらないと言うべきであろう。これらのことを充分に理解したうえで、インド思想の特色、仏教思想の全体像を明らかにするのが、インド哲学・仏教学を学ぶ者のつとめであろう。

 (菅沼晃先生古稀記念論文集刊行会編『インド哲学仏教学への誘い』大東出版社、2005年)(iii-iv)


 私も学部、大学院と先生の授業を受け、研究方法論の話も聞いた覚えがあるのですが、それらがこの5項目にまとまっていると思いました。

佐藤 厚

(感謝! アイキャッチ画像: nmoodleyによるPixabayからの画像)

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